伊東四朗さんが今でも忘れられない戦争時の空襲体験が壮絶と話題になっています。
伊東四朗 空襲体験の即死エピソードが壮絶過ぎてヤバい・・・・・
伊東四朗さんは開戦時には4歳だったそうですが、その年齢だともう自我が目覚めていても不思議じゃないですよね。
それだけに空襲でご近所さんが目の前で亡くなるという恐ろしい記憶を鮮明に覚えているそうです・・・
コチラが伊東四朗さんが語った壮絶な空襲体験の一部です↓
電線に引っかかっていた焼夷弾が突然落っこちてタテノさんという近所の方の顔を直撃した。その方は顔の半分がスパッと削ぎ落されて死んでしまいました。私は間近で見たから、あの光景はいまだに頭から離れませんね。あの時「即死」という言葉を覚えました。
コチラが伊東四朗さんの空襲体験に関する記事詳細です↓
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伊東四朗 空襲体験に関する記事
「私は小学5年生でした。霜でびっしりのものすごく寒い朝でね、家族で食卓を囲んでいたら、午前7時のニュースが始まったとたん、『しばらくお待ちください』とアナウンスがあった。あれっ、ニュースなのに珍しいなと思っていたら、『臨時ニュースを申し上げます』という言葉に続いて、『大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり』と来た」
【写真】伊東四朗氏と対談した作家の半藤一利氏
太平洋戦争開戦をそう振り返るのは、作家の半藤一利氏だ。
8月15日で、日本は戦後74年を迎えた。300万人を超える死者を出した太平洋戦争――戦前に生まれた世代はすでに70~80代以上となり、戦争体験者の数は年々減り続けている。
今回は終戦企画として、喜劇役者の伊東四朗氏と半藤氏に、自身の戦争の記憶について語り合ってもらった。
伊東氏は1937年生まれ。父親は洋服の仕立て職人で、幼少期を東京市下谷区竹町(現・台東区台東)で過ごした。一方の半藤氏は1930年生まれ。父親は運送業を営み、幼少期は東京市向島区吾嬬町(現・墨田区八広)で過ごした。
2人の地元である下谷区と向島区は、墨田川を挟む同じ地域にあった。どちらも東京の下町と呼ばれるエリアだ。当時、子供たちの間ではベーゴマやメンコ、戦争ごっこと鬼ごっこをあわせた「駆逐水雷」などが流行っていた。
下町育ちという共通点を持つ2人は、開戦時はそれぞれ4歳と11歳。戦争の色が次第に濃くなっていく社会の中での、周囲の大人たちの様子をこう振り返る。
半藤 私の親父は変わり者で、開戦初日から「馬鹿なことを始めやがって」と毒づいていました。私の顔を見て「坊の人生もあんまり長くねぇな」なんて言い放ったりしたもんだから、母親が「そんなこと大きな声で言うんじゃないの!」と慌ててました。でも大酒呑みなもんだから、酒を飲むたびに「あかん、あかん。これでおしまい」と繰り返していた。伊東 酔って気が大きくなって(笑)。
次ページは:「この戦争、何だかおかしいぞ」引用元:「焼夷弾が人の顔を半分に……」伊東四朗82歳が語った74年前の空襲体験
伊東四朗 空襲体験に対してのネットの反応
- この人たちがただゆっくり戦争体験を話すだけの
番組もあって欲しい。 - 半藤さんも伊東さんも高齢になりましたね…戦争体験を語ることは辛いでしょうけど、俳優さんが語ると耳に入りやすい、怖い話だけど聞くことも大事だと思う。
- 戦争のない時代に生きるってだけで本当に幸せな事なんだと思う。
行きたくもない戦地に行き、殺したくもない人に銃口を向け、何の接点もない人から銃弾を浴びる。
今の平和に感謝して生きていこう。 - 戦争の体験談を聞いた事がない子供達が増えてきました。
戦争を体験された方の高齢化もありますが、メディアも特集を組む事が少なくなってきているのを感じます。 - 終戦記念日には、先の大戦のドキュメンタリーなどを放送していただきたい!先人の犠牲の基に今の日本の繁栄がある事を忘れてはいけない!
- 若い人は、戦争体験者の話をよく聞いていた方が良い。これからの日本をどうするかは、若い人達が決めていかなければならない事だから。その話を聞いてどう考えるか、どう思うかはその人次第だが、その話をされた方の思いは理解しなければならないと思う。今まで日本が平和で来れたのは、その方々の思いがあったというのも一つの要因だと思うから。もう一度言うが、この先の日本をどうするかは若い人自身次第。経験を生かすも殺すも君ら次第。人の意見に流されるでなく、自分の頭で考えて行動しなければならない。
- 昔は終戦記念日や原爆の日になるとテレビやニュースで特集や映画が放映されましたが、今やそれもめっきり少なくなりましたね。
唯一の原爆投下国が平和ボケしてまた同じことを繰り返さなければいいですが。
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